NFTアートはNFTの可能性のすべてではない
若林 恵(編集者)

たまたま去年の終わりからメタバースのことなどをいろいろ調べていて、そのタイミングで坂本さんのNFT発売がありました。NFTとはどういうものかなと体験したくて購入してみようかなとも思ったのですが、そうこうしているうちに一部で問題化していると聞き、結局購入にはいたりませんでした。

坂本さんがどういう主旨からNFTをやってみようと思われたのかはわかりませんでしたが、アーティストがレコード会社やレーベルといった「中間業者」を介在させることなく自身の作品をマネタイズすることができるようになるということを、坂本さんがデジタルテクノロジーの登場当初から主張してこられたことを思えば、NFTに同じ期待を寄せられたことは想像できましたし、その期待に共感するところは自分も少なくありません。

ただ現状のNFTバブルが、そうした期待を体現するものとなっているのかといえば、どうもそうではなさそうに傍目からは見えていました。実際ブライアン・イーノは、現状のNFTブームを、「アーティストがグローバル金融のおこぼれに与るべく、自分の作品を財政化したものに過ぎない」と断罪していますが、そう批判されても仕方ないようなところがありそうなことは自分のような部外者でも察することはできました。

自分が『WIRED』誌の編集長を務めていた2016年に、ブロックチェーンをテーマにした特集を制作したことがありまして、そこで、ブロックチェーンの強みがオンライン上に有限のアセット(有価物)をつくれることにあることを学びました。これはいうまでもなく技術的には画期的で革命的なものですが、その技術が自動的に新しいビジネスモデルをもたらすのかどうかについては正直疑問がありました。

というのも、アセットを無限に複製可能にしてしまうというのはデジタル空間内における特殊な条件であるだけで、アナログな物理空間においてはアセットは概ね有限なものとして存在してきたからです。つまり、ブロックチェーンによって限定個数のデジタルアルバムを100個販売できるようになることは、デジタル技術的には画期的ではあったとしても、限定のアナログ盤を100部リリースするのと同じことをデジタル空間でできるようになるだけだと言ってしまえば、そこに必ずしも新奇性があるともいえなくなってしまいます。

こうしたことを踏まえて、音源作品のNFT化において考えてみなくてはならないのは、まずは「作品」というものをどう捉えるか、そして、それを「所有する」ことが何を意味しているのか、という点ではないかと思います。

音楽において「音源」が流通可能なものとなり、かつそれを「作品」とみなす考え方が一般化したのは、複製技術による大量生産によってですから、その点からしてすでに「一点もの」を前提としてきた伝統的な美術作品とは、同じ「作品」と言ってもその成り立ちが違っています。

また、複製技術による大量生産を前提とする「音源作品」と、転売されるなかで価値が増幅していくアート作品とでは、価値の発生の仕方から、それをやりとりするマーケット(市場)の成り立ち、ビジネスモデル、そこでのルールやエトス、さらに転売マーケットに参加する人たちの動機や目的も大きく異なっているはずです。その違いを詳細に分析する能力は私にはありませんが、坂本さんのNFTがもたらした混乱・混線の要因のひとつは、まずはそんなところにあったのではないかと感じます。

そうした混線のなかで、今度は、さらに「作品を所有する」ことの意味も混線します。複製技術を前提とした音源作品はあくまでも一次市場に向けた「プロダクト=商品」であって、二次流通市場における価値創出をビジネスモデルとして組み込んではおらず、これまで二次市場は「中古市場」としてあくまでも副次的なものとみなされてきました。つまり「音源作品」の場合、誰かが一度所有したものは、それ以後は「中古品」となるわけです。

ところがアートビジネスにおいては、二次流通市場こそがむしろ本丸で、作品がアーティストの手から離れた瞬間から、それは運用可能な「資産」として扱われます。音源作品の転売は「下取り」ということばで定義されるように、どちらかというと「処分」の意味合いが強いものですが、アート作品を転売することを「下取りに出す」と考える人はいませんよね。つまり、アートの場合、最初からそれが「プロダクト/商品」ではなく「資産」として扱われますので、当然そこに投機性が強く発動することになります。

プロダクトとしての「音源作品」とその「所有」のあり方に親しんできた人にとって、NFTマーケットでの「音源作品」の販売が「投機目的の転売ビジネス」にしか見えなかったのだとすると、それはアートと音楽の世界における「作品」というもの特性と、それを扱うビジネスモデルの違いから生まれた認識のズレから生じたもので、とりわけ、音源作品をアートビジネスのロジックに則ってNFT化したことが、音楽ファンを居心地悪くさせた面があるのではないかと個人的には想像します。

NFTというものは何も限定的にアートビジネスのロジックにだけ親和性のあるものではないはずですから、今後、音楽は音楽で、既存のビジネスのやり方やユーザーの慣習や精神性に即したNFTの利用の方法を、さらに模索してみる必要があるのではないかと思います。

また、こうしたことを考えていくなかで思い出したのは、かつて、大昭和製紙の会長が自分の所有するゴッホやルノワールの絵を自分が死んだら棺桶に入れて一緒に焼いて欲しいと発言して炎上したことです。この発言がなぜ炎上したかといえば、「アート作品を所有した」からといって「自分のものなのだから処分しようが何しようが個人の自由である」とはならないことを、社会がコンセンサスとしてもっているからです。「アート作品を所有すること」のなかには権利とともに、ある種の責任が所有者に対して想定されているんですね。

こうした責任は、必ずしも法的拘束力のあるものではなく、どちらかというと規範もしくは不文律として運用されているものですが、それがないところで剥き出しの状態で「所有する権利」を闇雲に販売してしまうと、その所有権はニアリーイコールで「処分もしくは転売していい権利」を意味してしまうということが今回改めてクローズアップされたのだと思いますし、NFTアートに向けられた疑念の多くは、まさにここに起因しているのだと思います。「所有する権利」が「転売していい権利」しか意味しないのであれば、そこに投機目的の人たちしか集まらなくなるのも当然ですよね。

こうしたことを踏まえて、投資家でありアートコレクターでもあるサトウヒロシさんは、村上隆さんのNFTの利用方法を、ご自身のブログで高く評価されています。サトウさんが村上隆さんのNFTを評価しいるのは、以下のような観点からです。


いままでのNFTアートの問題点として、結局なにが取引されているのか、なんの権利が購入者にあるのかがはっきりせず、(投資家はそんなことは気にしていないのですが)結果として、たんなるマネーゲームとてのユースケースだけが存在しました。
NFT界隈もそうした批判には飽き飽きしたのか、より実用的なユースケースを探し始めます。そこで、急激にゲームやメタバース界隈との結びつきを強めていき、そちらにビジネス機会を見出しました。
いまNFT界隈のシノギは、メタバース(ゲーム)でつかう自分のアバターを売るというものになりました。NFT所有者は、メタバース内で画像を自分のアバターとして使っていいよという権利を得るという立て付けになっています。
これは、よく考えられた落とし込みだとおもいます。何を売っているのかわからない「ふわっとしたアート」という批判をかわして、あくまでアバターの「使用権」をNFT化しているのだと。そして、メタバースのブームにもしっかり歩調を合わせている。
https://bigstone.medium.com/takashi-murakami-nft-avatar-a323940004b2


サトウさんは、村上隆さんのNFTは「何の権利を売っているのか」が明確になっており、そうすることによって「何を売っているのかわからない」がゆえに投機化した現状のNFTアートの問題を回避したと指摘しています。

これはブロックチェーンがスマートコントラクトを可能にする仕組みであることを考えれば極めて的を射た指摘だと思います。NFTのみならずファンジブルなソーシャルトークンでも、発行する主体は購入者に向けて「それを所有することでどういう権利が与えられるのか」を契約として定義することできるわけですが、それによって「権利自体」を売り物とすることができると考えれば、この「権利の定義」こそがNFTビジネスのキモであるべきなのかもしれません。

サトウさんはさらにこんなことをおっしゃっています。


もはやNFT界隈はアートではなく、メタバースに方向転換しています。
アートの新時代だ、NFTだ!ということで盛り上がっていた美術業界のみなさん。もうNFTアートは下火というか、話題にならないですよ、見捨てられてますよ・・・。そういうもんです。界隈の金儲けに利用されただけなんですよ。


実際のところNFTの実用例は、マインクラフトやFortniteといったゲームのなかで増えており、それをメタバースと呼ぶかはさておき、NFTのフロントラインがゲーミング空間に移行しているのはたしかだと思いますし、さらに最近ではスポーツビジネスにおける実装が進んでいるとも聞きますので、音楽、ゲーム、スポーツといったそれぞれの業界がそれぞれのやり方でNFTを実装していくことが今後進むことになると思います。NFTはそれ自体がビジネスモデルであるわけではなく、むしろデジタル空間において新しいビジネスを可能にするインフラのようなものだと思えば、アート業界がバブル化させたようなやり口だけがNFTの実装方法ではないわけですね。

また、今後のNFTを考える上で重要なのは、それがファンダムエコノミーやクリエイターエコノミーと呼ばれるものを下支えするものであるという点ではないかと思うのですが、そうした新しい経済潮流においては、必ず「コミュニティ」というものが基盤に置かれていることは大事なポイントかと思います。

2021年11月にBTSがNFTを売り出すことを発表し、これもまた大きなバックラッシュに合いました。批判の主眼はNFTの環境負荷についてで、それを受けてレーベルは事業の見直しを迫られることとなりましたが、ここで明らかになったのはファンコミュニティの価値観と合致しないところで起案された事業は成立することがままならないということで、それは逆に、いかにNFTのようなサービスが本質的にコミュニティに根ざしたものであるかをも明かしているようにも思います。

これからブロックチェーンもNFTもメタバースもさらに発展していくと思いますが、いずれもあくまでインフラにすぎません。それを用いてどのようなプレイヤーがいかなるビジネスを生み出していくのかは予測できませんが、ファン・コミュニティを基盤に、ファンと制作者とが協働して「自分たちが価値があると思うもの」を成長させたり保全していくようなものになっていくのが望ましいあり方なのではないかと思います。とりわけ音楽はそもそもそうしたコミュニティ生成力がとても強いもので、それ自体が「通貨」のようなものであったりもするわけですから、そうした観点から、新しい技術の実装が考えられていくといいなと期待しています。

最後にエネルギーの問題について触れますと、NFTをはじめとするブロックチェーン技術が莫大な電力を要するという点は、今後も大きな課題であり続けるかと思います。メタバースだけでなくAIなどの技術の一般化によって電力需要が増大していくこととなれば、いかにその需要に応えていくかは国家的な課題となります。脱炭素という目標を掲げる一方でさらに増大するエネルギー需要に応えるとなると、必然的に「原発」に改めて注目が集まることになるはずです。欧米ではすでに原発回帰が進んでいるとの報道もありますし、日本がどういった進路を取るべきかについても、新しい状況に即した新しい議論が必要になってくるのではないでしょうか。

若林 恵 Kei Wakabayashi
平凡社『月刊太陽』編集部を経て2000年にフリー編集者として独立。『WIRED』日本版編集長就任、を経て黒鳥社設立。著書『週刊だえん問答 コロナの迷宮』、『はりぼて王国年代記 週刊だえん問答2』 、『さよなら未来』、責任編集『次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』。「こんにちは未来」「〈働くこと〉の人類学」「blkswn jukebox」「音読ブラックスワン」などのポッドキャストの企画制作でも知られる。